whyというのは、いわゆる物事を成立させるための接着剤であると私は思う。ビジネス課題を解決するための専門部隊であるコンサルティング会社はこのwhyを頻繁に繰り返し使う。この現象が成り立つ原因はこれが全てなのだろうか?そして、その原因を成り立たせるさらなる原因は正しいのだろうか?そんなことを繰り返し自問自答していくのがコンサルティングの仕事であると思っている。コンサルティングの仕事というのは、つまりは目に見えない出来事や現象についてそれを引き起こす原因をwhyを使って明らかにすることである。または、科学者はある現象においてなぜそのような現象が引き起こされるのかを地道に実験を繰り返しながら一つ一つ確かめていくような仕事である。そこでもwhyを使って現象の原因を突き止めていく作業である。または、私たちが使っているパソコンは膨大なwhyで出来上がっている。つまりは、0と1を繰り返すことで様々なソフトを創り出すことが出来るようになっているし、そのためのハードウェアもいくつものwhyが積み上げられた結果こうしてパソコンを利用することが出来る。ある意味パソコンも含めた多くの電子製品というのはもはや奇跡と言ってもいいような代物である。そういう意味では私たちの身の回りにあるものは奇跡ばかりである。電球だってそうだしその周りにあるガラスもそう。本だってそうだしコンポもそう。インターネットもうそうだしプリンタだってスマホだってものすごい数の論理とwhyで出来上がっている。極論すれば我々が生きていること自体が最大の奇跡であると言える。
どんなコトにもモノにも理由がありそれはwhyで結ばれている。ある意味whyを繰り返すことはどうしてそれが成り立っているのかということについて知ろうとする行為である。そうすることで人々は自分自身が一体何なのか、私たちはどんな環境に身を置いているのかを知ろうとする。逆にwhyを繰り返さないという事はどういう事だろう?それは自分が何者かを知ろうともせず、どんなところにいるかも知ろうともしない事である。言い換えれば、自分自身にも他人にも何にも興味を持たないという事である。そう考えると私たちがwhyと考えることはとても自然でありむしろwhyを繰り返さなければならない行為なのではないかとさえ思えてくる。whyは自分自身の人生を明確にし幸せにしようとする行為であると言えるのではないだろうか。
子供たちが「どうして?」を連呼するのは人間として非常に活発である証拠である。一方、大人になるにつれて「どうして?」を連呼することはなくなる。それはある意味、人生に諦めの部分が芽生えた証拠でもある。それが大人の世界なのかもしれない。しかし、間違いないことはwhyをしなくなればなるほど人生はつまらなくなるという事だ。何でもwhyを繰り返していれば、分かった時の感動がある。whyがなければ何の感動もない、何の変化もないつまらない人生が待っている。そういう事ではないだろうか?