問題解決をしなければならないとき、論理的に考えることが重要であると言われる。感覚的に問題を把握し、感覚的に解決策を練り上げてることは非常に非効率的であり、非効果的である。事実・ファクトをベースとして論理を展開することで本質的な問題を把握し、適切な解決策を発見することが出来る。
右肩上がりで成長していた時代であれば、何となくココだろうと当てを決めて、こんな感じのことをすれば今までであれば改善するはずだ!という常識や経験、勘に頼っても市場が成長しているので結果的には大きな問題にはならなかった。しかし、現代のように人々が多様化し、過去の常識が通用せず、凄まじいスピードで変化するようになると、業界の常識や経験・勘だけでは適切な対応が出来ることは少なくなる。
そのため、世間一般的に、仕事は「感情的にならず」「論理的に」仕事を進めること良しとする風潮が広まるようになる。この考え方は既に多くの企業に広まっており、ファクト・事実・数字をベースにしたものでなければ社内稟議が通らないことは常識と言えるレベルにまで到達していると言える。
しかし、この論理的に解明していくことは非常に複雑であり、大量の情報を収集・処理したり、錯綜した因果関係を解明することは単純に思考力があれば十分なのかと言われれば、そんなことはない。実際に取り組んでみると、非常に地味で手間がかかり、これで行けるはずだと思っては、またスタート地点に戻されることの連続である。論理的に考えるというのは、苦痛と共に進められるものだ。そのため、論理的に思考することは、誰にでも出来るが、論理的に思考し続けることで、問題解決まで到達できる人は、ほんの一握りである。
「論理的に考える」とは、多くの人にとって感情を排除し、客観的に冷静に考えることだと認識されている。なぜ、そのように考えるのだろうか?それは、論理的に考えるということは、単なる「手段」であり「思考の道具」でしかないからだ。世の中に様々な道具があるように、論理的思考も道具に過ぎない。道具に感情がないように、論理的思考にも感情がない。
また、道具を使えば必ず結果が出るわけではない。シャベルで地面を掘れば水脈を発見することができるわけではなく、水脈に到達するまで掘るから結果が出るのである。同様に、論理的思考を駆使すれば、問題を解決することが出来るわけではなく、問題解決するまで論理的思考を続けるから問題を解決することが出来るのである。
つまり、目的を達成するに当たって、論理的思考は効率的に物事を進めるための道具でしかなく、問題解決にまで到達させる重要な要素は「情熱・忍耐・執着心」なのである。これまでの歴史を見ると科学的・論理的思考によって多くの問題が解決され、様々な科学的発見がなされてきた。しかし、その原動力となったのは論理的思考ではなく、「どうなっているのか知りたい」「なぜこうなっているのか知りたい」「どうしても知りたい」という人間の情熱であり忍耐であり執着心である。
マーケティング課題を解決するには、データをベースとした論理的思考だけでは十分ではない。論理的思考はあくまで道具であり、その道具を使う人間の「気持ち」が課題解決に大きく影響するのである。
近年、人間の「感情」や「想い」というものをあまりにも軽んじている風潮がある。確かに、感情や感覚によって決定すべきではないシーンはある。しかし、私たちが多くの失敗から学んだことは感情や気持ちを完全に排除することではなく、感情や気持ちを適切に燃やすことではなかったのか?ということである。これまでの失敗で、気持ちが重要なシーンとそうではないシーンが分からなかっただけであり、気持ちの使いどころが間違っていただけではないのか?
感情を排除するのではなく、論理的思考を持続させるエンジンとしての感情を定義しなおすことが大切なのではないだろうか。