マーケティング戦略を考える上で常に中心にいるのは「顧客」である。マーケティング担当者は「顧客の声」に耳を傾け、顧客のニーズを満たすことを目的に様々な手段を用いる。しかし、これほどまでに「顧客の声を聞くことの重要性」や「顧客のニーズを満たすことの重要性」が叫ばれてもなお顧客のニーズをつかみきれないだとか、顧客の声を耳を傾けることが出来ない企業がたくさん存在する。
このような事態になったのは企業の努力不足なのだろうか?いや、そんなことはない。各マーケティング担当者は常に顧客の声に耳を傾けているし、顧客のニーズを把握することを意識し続けている。では、なぜ顧客のニーズをつかめないのか?なぜ、顧客の声を正しくキャッチすることが出来ないのだろうか?
その一つの理由は、「誰の声を聞くべきなのか?」が難しいことだ。例えば、新薬の開発の際に聞くべきなのは「患者の場合」と「医者の場合」とで全く異なる製品が出来あがる。企業は、自社の資産と会社としての方向性を把握したうえで、誰に何を聞く必要があるのかを決めなければならない。しかし、そのようなことを理解するのは意外と難しいものだ。
また、「いつの時点の声」を聞くべきなのかも難しい。例えば、旅行中の声を重要視すべきなのか、旅行後のことなのか、旅行前のことを聞くべきなのかによって同じ顧客でも異なる種類の声が聞かれるだろう。会社としてどの時点に強みを持ちたいのかなどによって聞くべき時点が変わるはずだ。
しかも、顧客は自分自身の気持ちやニーズを正確に表現することが出来るわけではない。特に食品の風味や味などについては大体みんなが言っていそうな言葉を選んで表現したりする。どんなに顧客の声に耳を傾けてもそのまま信用することは出来ない。そのため、結局は「製品サービスを出してみないと分からない」。製品サービスが発売されて初めて顧客は「こういうのが欲しかった」「こういうのじゃないんだよね」という反応を示すのだ。
誰の声を、どのようなタイミングで、どのように工夫して聞けばよいのかは非常に難しい問題である。そのため、顧客の声を聴いてさえいれば良いなどと安易に考えてはいけないのである。
少し前の事例だが、HDD(ハードディスク)メーカーが耳を傾ける顧客を間違えた話を紹介したい。当時、HDDメーカーにとっての優良顧客とは、IBM社のような大型のメインフレームコンピューターメーカーであった。大型コンピューターメーカーは、14インチのHDDを評価し、より安い価格でより大量のデータを記録できることを重要視していた。つまりは、それが顧客の声だったわけだ。
そのようなところに8インチのHDDという技術が登場する。8インチHDDは小型ではあったが、既存の評価基準(より安い価格でより大量のデータを記録できるか)から見て劣っていた。劣っているのだから、大型コンピューターメーカーは興味を示さない。優良顧客が興味を示さないのだからHDDメーカーも8インチHDDを軽視した。そのまま14インチHDDの生産を続け、8インチHDDの開発はしなかったのだ。
しかし、8インチHDDは徐々に価格性能比が高まり、14インチHDDとほとんど同じになる。場合によっては8インチHDDの方が安くなることさえあった。そのため、当初はミニコンピューターメーカーだけに使われていた8インチHDDが大型コンピューターメーカーでも使われるようになったのである。結果的に、それまで優良顧客の声を聞き、忠実に貢献してきた14インチHDDメーカーは技術変化に乗り遅れ淘汰されたのであった。
ここで重要な点は、優れた企業ほど優良顧客の声を忠実かつ迅速にキャッチする組織プロセスを持っているという点である。魅力的な売上と利益をもたらす優良顧客に敏感に反応し、そうでもない顧客(ミニコンピューターメーカー)の声に無駄に対応しなかったからこそ高い売上と利益を獲得することが出来ていたのだ。
言い方を変えれば、魅力的な顧客に適切に反応出来るように組織が最適化されているからこそ、それ以外の顧客(急速に伸びている顧客など)には反応出来ない(耳を傾けることが出来ない)のだ。14インチHDDメーカーの基準では、ミニコンピューターメーカーの声は耳を傾ける価値がないからだ。
そもそも顧客の声を聴くことは難しい。さらに、顧客の声を聞けるようになったとしても、それだけが企業の継続的な売上と利益をもたらすわけではない。常に変化する顧客に適切に組織も変化しなければならない。これは非常に難しい経営判断と圧倒的な実行力が必要とされるものだ。
なお、「イノベーションのジレンマ」のクリステンセンは、HDDメーカーのような場合は、8インチHDDの製品開発・販売する組織(新会社)を別に設けることで解決することが出来ると説明している。既存の組織を変化させるのではなく、新しい組織を作り、その組織をミニコンピューターメーカーの声に敏感に反応する組織にすることの方が良いと言っている。