古代の物語を読まなくなったと言われる現代において、皆さんにとって古典に対してどのようなイメージをお持ちだろうか?
きっと、「古典を読んだところで何の役に立つのか分からない」「特にビジネスと何の関係があるのか分からない」といった意見をお持ちの人が多いのではないだろうか?それはそうだろう。古代の物語には、例えば「夢」によって大きな決断をするシーンが多い。夢によってどこを攻めるのかを決める話や子供の運命が両親の見た夢によって決められるシーンなどは何を読み解けばよいのか分からないのは当然だろう。そこに、現代人と古代人の「夢」への捉え方の大きな違いがある。
現代人にとって「夢」によって大きな決断をすることはあり得ない。大切な転職先・就職先を「夢」によって決めることなんてあり得ないし、子供の運命を「夢」で決めたと言えば、最悪逮捕されかねない程である。それくらい「夢」というものは現代人にとっては意味のないものであり、価値のないものである。
しかし、心理学者のユングは「夢」についてこう言っている。
人間は、その意識を体系化し、自我を中心として主体性や統合性をある程度そなえ、自我の判断によって主体的に行動しているが、自我の意識できない心の働きがあり、それによって影響を受けている。その無意識的な心の働きを、自我の統制の緩んだ時に意識するのが「夢」であると考える。
無意識の働きは、当初、自我の働きを妨害したり歪曲させたりする否定的な面が強調されたが、ユングは、その肯定的な面に注目し、無意識には自我の一面性を常に何らかの観点から補償しようとする傾向があると考えた。そうして、彼はその考えを一歩進め、自我が意識の中心であるのに対して、意識、無意識も含めた心全体の中心としての「自己」の存在を仮定した。自己は意識によって把握することは出来ないが、人間の心は常に全体性を求めて働いており、その中心としての自己との接触を自我が保持して、最大限に自己の働きを生きようとするのを、自己実現であると考えた。そのとき、自我が完結した存在として閉じることなく、自己に対して開いた態度を取ることが必要である。夢はその点において、自我の統制のゆるんだ睡眠中に、自己からおくられてくるメッセージとしての重要な役割を持つと考えられた。もっとも、それは覚醒時の自我からすれば、簡単には把握できない意味を持つことがおおく、一見ナンセンスとさえ思われるのだが、その真の意味を見出すように努めるのが「夢解き」の仕事である、と考えた。
「神話と日本人の心」河合隼雄著
ユングの言う通り、夢が自我への助けとなるための補償としての役割があるのであれば、古代人が「夢」を重要視することについては何ら不思議もないし、合理的であるとさえいえるのではないだろうか?
しかし、ここで私が言いたいのはそんな夢の話ではない。この古代人の夢とユングの夢についての定義を考えたときに、我々が学べることは「我々が意識しないところに成長へのヒントは存在する」ということである。古代の物語にしても、現代ビジネスマンの成功ストーリーにしても、多くの人は意図しないところから成功のヒントを得ていることが多い。それを多くの人は「運が良かった」とか「偶然が作り出した」とか言うのかもしれない。しかし、それではあまりにも受動的すぎる。そう考えるのではなく、成長への一歩を掴むためには、意識できる部分だけに集中したのではつかめないのであって、意識できない部分にいかに触れることが出来るかにかかっているということなのではないだろうか、ということである。
つまりは、自分の好きなことだけ、意識しているものだけに閉じてしまってはいけないということだ。それでは、いつになっても新しく自我の成長のための糧を得ることはできない。そうではなく、知らないところに出かけ、知らない人と会話し、知らないことを知ることが大切なのである。
古代の物語には、そのヒントが沢山ある。古代の物語を単純に夢で決断するなんて馬鹿げた物語であると解釈するのではなく、人間として成長するために自我や自意識では捉えられない部分にこそ成長のヒントがあるのだと読み解くことで古代の物語は一気に面白くなる。
多くの人が、「古典を読め」と言うのはそのようなヒントが満載であるからに他ならない。近年は、ノウハウ本によってスキルを獲得しようとする傾向が強い。しかし、それらスキルが重要なのは確かであるが、それはある意味、成長に必要な一部分にしか過ぎない。それだけでなく、自分自身が意識しない部分にも成長へのヒントがあることを認識し、行動していかなければならないのである。