「若者の●●離れ」という言葉は、至るところで使われるようになった。
しかし、多くの企業が表面的なの分析に終始してしまい、なぜそう感じるのか?というさらに深い分析はあまりしないようだ。分析しても時代が違うからとか、若者とそうでない人が具体的にどのように違うのかを分析したものは非常に少ない。
そこで今回はそのことについて20代前後の人(若者)と50代以上の人が持つ「比較軸」の違いから考えてみたい。
まず、50代以上の人が持つ「比較軸」をクルマを例にして考えてみたい。この世代の人にとっては「クルマ」とは大人になる証であり、クルマを持っていることが一種のステータスであった。クルマを持っていないことは、収入面など何か欠陥があるかのような印象を与えてしまうほどである。50代以上の人にとって「クルマ」とは「自分を表現するもの」であり「自分の地位やブランドを表現するもの」なのである。
そのため、クルマを持っていない人は評価するまでもなく、クルマを持っていたとしても「何のクルマに乗っているのか?」ということに対して非常に敏感で、所有するクルマでその人を評価することさえあったのである。50代以上の人にとってはクルマ自体にブランド的な要素が含まれていたのである。クルマを持つこと自体に価値があったのである。
50代以上の人にとってクルマを購入するときに「自分自身を表現するものか?」という比較軸が想起され、多くの人にとって「自分自身を表現するもの」であった。そのため、自動車メーカーとしてもこのクルマを持つことのステータスを表現することでクルマが売れたのである。
一方、20代前後の若者にはそのようなことはあまりない。まったくないわけではないが、どんなクルマに乗っていようがその人を判断する理由にはあまりならない。あらゆる情報が手に入る時代において、どんなに立派なクルマに乗っていてもダメな奴はダメであることを十二分に知っているので、クルマで人を判断することに対して意味がない。「高額なクルマに乗っているから何?」というわけである。
若者にとって、クルマはあくまで純粋に移動手段であり、別に電車やバスがあるなら持つ必要性がないものとして位置づけられるようになった。若者がクルマを購入するときに「自分自信を表現するものか」という比較軸は想起されない。移動手段であり、現実的な目的をもっとクルマを選ぶ。なので、軽自動車が売れるようになったり運転しやすさが重視されたりするようになったのである。
上記のことから分かるようにクルマが売れなくなった理由は明確である。現代においては以前にあったクルマに対するブランド的要素が抜け落ちているのである。クルマを持つこと自体に価値がなくなったのだ。それを促進させたのはインターネットの出現であろう。あらゆる情報が手に入るようになったことでクルマのブランド的要素が崩壊したのである。
もちろん、可処分所得の減少・相対的なクルマの価格の上昇・賃金の横ばい・価値観の多様化などクルマを買わなくなる要素は沢山あるだろう。しかし、昔であれば借金してまでクルマを購入するような人が相当数いたにもかかわらずそのような人は消え去っている。さらに、お金に余裕のある若者でさえクルマに興味を示さない人が増加している。これは明らかにクルマへの魅力がなくなっているからにほかならない。
また、可処分所得の減少や賃金の横ばいなど自動車メーカーとしてはどうしようもないことに対して出来ることは何もない。どうしようもないことを理由にしてただ指をくわえているのは言い訳である。出来ることがあるとすれば、それはやはりブランドの再構築(クルマを持ちたいと思う感情の醸成)だろう。
いずれにせよ、若者にとってクルマは現実的な移動手段であり1つの物理的な機械でしかない。以前と比べるとクルマに乗ることの価値が非常に低くなったのである。価値観の多様化によってクルマの優先順位が下がっている。それをいかに戻していくのかである。
自動車メーカーがやるべきなのは、クルマを持つことの喜びや意味を再構築することである。しかし、この再構築の仕事は、1つの自動車メーカーで出来ることではないかもしれない。業界全体で、クルマのブランド的要素(クルマを持つことの意味)を再構築するマーケティングプロジェクトが必要なのではないかと感じている。もし、鉄の塊であるクルマにブランド的要素を加えたいのであれば。